DSC_3335

日記

歴史好きの方へお勧めします、「空白の日本史 歴史の穴を検証する」本郷和人著(扶桑社新書)

投稿日:2021年2月22日 更新日:

中学校や高校で学んだ歴史・日本史や世界史には年号と史実を丸暗記するもの、と言うイメージしかありませんでした。改めて、読める範囲で歴史書物に触れてみると、日本史は同じ史実でも著者によって捉え方が異なる場合が多々あることがわかります。以下、「空白の日本史 本郷和人著」から、成るほどと捉えたところを手短に要約し感想を交えながら記してみました。文才がなく端折った箇所が多分にあることをご了承下さい。

はじめに ー日本史に潜む「空白」を埋めるー

2019年、日本人にとって天皇陛下の代替わりに伴い、4月新元号「令和」の発表され5月1日より時代は「平成」から「令和」へ切り替わりました。天皇陛下が神道の作法に従って儀式を行う事実に疑問もなく受け入れたのが大方です。

でも、日本の歴史上では古来より神道より仏教の方が、強い影響力を持っていました。天皇家の誰かが俗世を離れるとき、第二の人生として選んだのは出家、仏教の道で神道へは殆どいませんでした。現代では日本全国の神社の頂点として崇められている伊勢神宮は、平安時代から江戸時代にかけて天皇が参拝したという記録は残っていないのです。

明治時代に皇室が伊勢神宮を重要視するようになるまで、神道は千年近くの「空白の時間」が存在します。「文献資料による空白」があったからです。文献が豊富に残る時代であっても、時代背景や時の為政者の思惑によって、歴史観に対するタブーや誇張が生まれることもあるからです。

途中で、誰かにとって都合良く歴史が切り抜かれたり、偏った歴史観を植え付けることで歴史に空白が生じてしまうこともあるのです。歴史の文献では「時の為政者がどんなことをし、それによって何が起こったか」と大きな出来事を重視しがちです。

女性や庶民など歴史の主役として重視されてこなかった人々に関する記述は極めて少なく、それも「空白」を生み出す要因となっています。「空白」を見つめることで、新たな「日本」という国の歴史像が浮かび上がってきます。

第1章 神話の世界 ー科学的歴史の空白ー

「日本」という言葉でひとくくりにされがちですが、かつては数多くの国が存在していました。ところが当時の文字資料は存在しません。西暦700年頃、「古事記」や「日本書紀」などが編纂されましたが、「歴史」というより「神話」に近く信憑性ははっきりしません。そこで時には、古代から語り継がれている神話の世界からヒントを得ることもあります。

古代日本は「西方国家」だった

日本という国が最初に産声を上げたとき、大和朝廷は日本の西側を統治していて東北や関東といった「東側」に対しては辺境の地とみなしていたと考えられます。当時の大和朝廷は朝鮮半島など「西」に目が向いていました。

仏教や新しい品物、文化をもたらす大事な地域だったからです。昔の人の法名では信西入道、西行、願西など、「西」という字がつく人はたくさんいますが、「東」がつく人は全くいません。阿弥陀仏が西方浄土を唱えているばかりでなく、「西」にあるものは尊い存在だと思われていたからです。「東」にある関東は田舎者が集まる場所で、大和朝廷は国内の「東」ではなく海を越えた「西」の国に関心がありました。

(この時代から現在に至るまで、細長い日本列島の文化や生活習慣が「西」と「東」で違いの兆しがここにあったようです。まして哀しいかな?北海道は論外だったのでしょう。)

時代の転機となった「白村江の戦い」

663年に起こった白村江の戦いで大和朝廷、天智天皇は当時朝鮮半島で持っていた日本の利権を守るため、百済の残党と連合軍を組み新羅・中国王朝の唐と戦い大敗しました。その後、大和朝廷は朝鮮半島へ目を向けることはなく、新羅や唐が日本へ攻めてくる恐れをいだき飛鳥から近江大津宮へ遷都します。

天智天皇亡き後は、弟の大海人皇子(のちの天武天皇)は兵を東からも募り、息子である大友皇子と672年壬申の乱で戦います。西国は疲弊していたので、不破関(現在の岐阜県関ヶ原)辺りに本営を起き東国から兵士を集めたのです。これまで「田舎者の地」と無視されていた東国の存在を意識するようになりました。

関東からの勢力を防ぐために「三関」を置いた朝廷

近畿につながる道に三つの関、福井県の「愛発関(あらちのせき)」、東山道を抑える岐阜県「不破関」、関東と近畿地方を結ぶ東海道には三重県「鈴鹿関」を置きました。関所の方向が全て近畿方面から「東」を向いていて、西向きの場所には関所はありません。

西暦700年頃から「三関」の東と言う意味で「関東」という言葉が使われましたが、「関西」と言う言葉は明治時代以降から使われてきました。関東地方は「関の東側」で、田舎で辺境の地と呼び西側と区別していたからです。

(この辺りの事柄は成るほどと、大変興味深く読みました。)

関東と東北という日本列島の色分け

当時の関東地方は現在の中部地方が含まれ、更に奥には「道の奥」、みちのくという東北地方があると日本列島は色分けされていました。しかし、古代の関東や陸奥は文化的に遅れを取っていたわけではなく、例えば奥州藤原氏の奥州平泉に象徴される「毛越寺」には寝殿造りの立派な庭園がありました。

奥州平泉は、方向的には東の更に北として東北、陸の奥にあり「陸奥(むつ)の国」と呼ばれていました。陸奥に隣接する上野(こうずけ 現在の群馬県)、下野(しもつけ 現在の栃木県)があった「毛の国」や、「越の国」と呼ばれた越前(現在の福井県)、越中(現在の富山県)、越後(現在の新潟県)でした。

奥州平泉の「毛越寺(もうつうじ)」には「隣国である毛の国・越の国にもこんな立派な寺はない」という意味があります。

(地元の方はよくご存じかと思いますが、北海道人にとっては成るほどというほかになく納得した次第です。これまで何気なく捉えていた現在の地名や通称の由来を知ることができました。)

第2章 「三種の神器」のナゾ ー祈りの空白ー」

日本が一神教ではなく、「多神教国家」になった理由

世界で数多く信者を持つ一神教の特徴は、「イエス/ノー」をはっきり言い、自分の意見を強く求められます。神への服従も絶対的で、神の意志に逆らった場合は厳しく処罰され、相手が自分の味方か敵かを厳しく問いかける宗教です。ひとたび敵になると、過去にも十字軍遠征に異端審問、魔女裁判やカトリックとプロテスタントの宗教戦争があげられ何百万単位で人の命が奪われてきました。

日本の場合、多神教では神様と神様の付き合い方が穏やかで、神様をめぐり死人が出ることはありませんでした。日本に一神教が流行しなかったのは、極東の地にあって一神教がたどり着かなかった地理的条件も一因かもしれません。何よりも自然が豊かで、適度に過ごしやすい環境であったからです。

様々な自然の恵みや災害を目の当たりにし、多神教の神様が生まれました。努力して穀物を育てれば日本人全員の食料を賄えるほど土地が肥沃です。江戸時代には、他国と米や麦の売買をした歴史はありまあせん。ヨーロッパのように寒い地域や中東のように暑さが過酷な地域ほど、厳しいルーツを持つ一神教が発達しました。

東大寺・大きな仏を作るために、八幡様が動いた

多神教の土着の神々が信仰される古代日本に伝来した仏教は、多少の宗教的争いがあったものの融合していきます。その融合は「神仏融合」という考え方で、神社に仏の墓である三重塔が建てられ、寺の境内に神社が作られるようになります。

聖武天皇によって作られた東大寺の大仏は多大な費用がかかり、協力したのが宇佐の八幡神宮です。

なぜ日本でキリスト教は弾圧されたか

海外交易史を専門とする研究者による有力な説は、キリスト教は日本を植民地にして支配しようとする勢力と非常に密接な関係があり、それに秀吉が気付いたからだといわれています。家康もそれに倣って禁止しました。本気でキリスト教の布教者達がそう考えていたかどうか定かではありません。

(以前に読んだ遠藤周作の「沈黙」がそのような内容でしたので、衝撃的な印象を受けました。)

日本で数少ない大量虐殺は織田信長による一向宗への制圧

基本的には穏やかな国の日本で、数少ない大量虐殺が行われたのが織田信長による浄土真宗・一向宗への制圧でした。一向宗の教義は「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽へ行けるというもの。信者達が信長には頭を下げないのに、阿弥陀様にはいくらでも下げる。これが信長にとっては許せない事態だったからです。

「神仏分離」の誤認が「廃仏毀釈」へと発展

「欧米列強に負けない強力な中央集権国家を作る」と新時代を迎えた明治の元勲の一番のミッションのもとに万世一系の天皇の存在がありました。彼らが手本とすべき欧米は一神教であるキリスト教を信奉しているので、それに近いものをと考えたようです。

ところが、民衆の間には「仏は悪いものだから、排除すべきである。仏をぶっ壊せ」と誤って捉えられ、廃仏毀釈運動へ発展してしまいました。これによって相当数の仏教美術が民衆によって破壊されてしまったのです。

明治政府が掲げた「国家神道は宗教ではない」

明治政府がうまれ、その神性をサポートするために国家神道が生まれました。それと同時に伊勢神宮が祖先崇拝の一番高位の神として配置され直すことで仏は排除されたのです。明治天皇が千年の空白を破り伊勢神宮へ参拝しました。神道には一切の教義や宗教哲学がなく儀礼やセレモニーだけです。

日本における「仏教の空白」に隠された意味

「宗教なのに宗教ではない」というところが、国家神道の妙なところであり今後も考えていかなければなりません。

日本は、本質的には多神教国家でもあり続けています。子供が生まれたらお宮参りをし、七五三のため神社へ行くのは神道の行事。キリスト教由来のクリスマスも祝うし、バレンタインのイベントや結婚するときにはキリスト教的なセレモニーを挙げるのが多いようです。

亡くなった際は大半は仏教の儀式に乗ってお墓に入る。宗教のごった煮?のような現象です。多神教を受け入れる土壌だからこそ、どの宗教とも共存することができるのでは。

第3章 民衆はどこにいるか ー文字史料の空白ー

文字史料が存在しない、名もない人々の歴史の空白を明らするかにする

鎌倉時代の民衆は字が書けないし読めない。農民は勿論、武士であっても同様です。民衆の人々が自ら何を考え、どういう欲求を持ち、どういう行動をするかを書いて他人に示すことはできませんでした。

『源氏物語』は本当に平安時代の文学か

紫式部が書いた「源氏物語」は、本当に平安時代を代表とする文学作品として認めて良いのでしょうか。平安時代の貴族は当時、日本列島に生きる人々の1%にも満たないのです。貴族文化の粋を集めた「源氏物語」は、平安時代の文化の上澄みを集約した作品であると考えることで、平安時代を代表とする文学作品として挙げることは可能です。

『枕草子』に著された「にげなきもの」でわかる庶民とかけ離れた価値観

「にげなきもの」とは「ふさわしくないもの」という意味です。「下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるも、くちをし」(『枕草子』より)を簡単に現代語訳すると「庶民の家に雪が降っている。これはまったくふさわしくない」という意味です。

清少納言にとっての庶民とは、ゴミゴミしたところで生活していれば良いような汚らしい存在。そんなところに、美しい純白の雪が降っているのは、庶民にとって宝の持ち腐れであり、分不相応。庶民と貴族との間にはそれなりの意識の差がありました。

当時の貴族達は、現代の私たちが大切にしている「平等」や「博愛」という精神は一切持っていないことがわかります。

文学史料だけで歴史を語る行為の危険性

『源氏物語』が貴族社会で共感を得るようになったのは室町時代になってからといわれ、平安を代表する作品かどうか疑問があるそうです。地方の歴史など、文字史料を持たない庶民や関東や東北に住む等の田舎に住む人々には立場を表明する機会はなかったからです。

「文学史料は、全能ではない」という恐れを持つこと

清少納言のように文字が使える人々は相当特権的で恵まれた存在ですが、そういう上澄みの世界で生きる少数の人々がいる一方で大多数は貧しさや時代の波に翻弄されながら生きています。考古学や民俗学で庶民の平凡で汚い生活を明らかにしていく必要があります。

第4章 外交を再考する ー国家間交流の空白ー

日本の歴史は「外圧」でこそ変わる

日本の歴史に大きな変革が起こるとき、必ずと言っていいほど海外からの外圧がありました。最初は663年の白村江の戦いで、大敗後の危機感から700年頃に天武天皇と持統天皇が突貫工事で日本の基礎作りを行います。

唐から学んだ法を体系化した律令で、これ以降権力者が勝手に物事を始める政治から法というルールに従った政治へ方向転換しました。これにより中国から独立国として認めらえるようになりました。

なぜ、鎌倉時代に貨幣経済が日本で発達したのか

律令に匹敵するほど日本史を変えたのが貨幣です。古代日本には和同開珎などの銭を造りましたが鎌倉時代になって貨幣が流通し始めました。要因の一つは平清盛による日宋貿易です。当時、宋へ主として材木を輸出していましたが、貿易船は貧弱でした。

往路は船底の材木が重石になり良いのですが、復路には船の重石がなく不安定になります。その代わりに宋銭を用いたのです。当時その日本にもたらされた多量の宋銭が鎌倉時代になって普及し、土地のような不動産より売買を容易にする動産が存在感を増していきました。

「元寇」と鉄砲伝来がもたらしたもの

モンゴル軍による外圧「元寇」で、鎌倉幕府の武士達が命がけで闘った結果勝利します。武士への報酬としての土地は得ることはできず、武士達の不満が約50年後の鎌倉幕府滅亡へ繋がっていきます。

戦国時代を終わらせた大きな要因は、信長に代表される鉄砲を使った戦争です。大量の死をもたらす鉄砲という外圧が戦国時代の終焉を早めました。嫌というほど人の死を目の当たりにし武士達の士気は一気に低下したからです。

歴史を変化させた「元寇」と「鉄砲の伝来」も「外圧」でした。

驚天動地の大事件・ペリー来航

1853年のペリー来航は驚天動地の大事件として、危機感を抱いたからこそ時代遅れの江戸幕府を捨て新たに中央集権国家を作ろうとした人々が明治維新を成し遂げました。ペリーという外圧によって日本の歴史は大きく変わり、欧米列強という外圧と戦った太平洋戦争も然りでした。

三百万人という人が亡くなった戦争を機にガラリとと変わり、民主主義が定着し自由や平等という価値観と共に経済成長を遂げ世の中が発展しました。

気候、宗教、政争・・・・・なぜ日本の歴史は穏やかなのか

鎖国をしていた江戸時代に他国との交流がなくてもやってこられたのは、努力をすればそれなりに収穫を見込むことができ、気候もそこそこに穏やで宗教抗争でたくさんの人が死ぬことはありませんでした。おそらく日本人は戦争が好きな民族ではないのでしょう。

他国では政治的な争いが一度起こると大量に人が虐殺されます。お隣の国・中国では政治的な失脚は死に直結し、当事者だけでなく一族郎党皆殺しという事態も頻繁に起きています。

(とはいえ、貴族の時代から武士の時代へ、応仁の乱や戦国時代へと政権の転換期にはそれなりの戦いを経てきました。その戦いは欧米や中東、中国の歴史と比較すると大きなものではなかったのかという疑問がわいてきます。

日本史上では戦いで大勢の死者が出たことには変わりはないと思うのです。大量虐殺ではないにしても疑問が残りました。本書から、日本人は穏やかな民族であることはわかりましたが、二度とあってはならないのがあの太平洋戦争に代表される他国との交戦です。)

第5章 戦いをマジメに科学する ー戦時史の空白ー、第6章 歴史学の帰納と演とき ー文字資料の空白ー、第7章 日本史の恋愛事情 ー女性史の空白ー、第8章 資料がウソをつく ー真相の空白ー

興味を持った「章」について記しましたので、他の「章」は本書で実際にご確認下さることをお勧め致します。

本郷和人:1960年東京都生 東京大学資料研究所、日本中世政治史専門、著書「日本史のツボ」「承久の乱」(文春新書)、「軍事の日本史」(朝日新書)、「乱と変の日本史」(祥伝社新書)、「考える日本史」(河出新書)、監修に「東大教授がおしえる やばい日本史」(ダイヤモンド社)

-日記
-,

Copyright© コマクサ|札幌円山近郊山登りとお勧めスイーツと雑記 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.