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日記

「フィンランドの教育はなぜ世界一なのか」岩竹美加子著(新潮新書)を読んで

投稿日:2020年12月5日 更新日:

書店で題名を見る度にずっと気になっていた本書。冬に向かい読書の機会が多くなることを予想し購入してみた。なるべく蔵書を増やさないように図書館利用を、と考えるのだがこのご時世でためらってしまう。勿論、図書館では貸し出し本に対しては、それなりに消毒などの対策を行っていて図書館で借りることを決して否定している訳ではない。気軽に借りられる図書館が自宅から遠いことも多分に理由としてある。

聞くところによると、北欧は日本でいう消費税は高いが教育や福祉は徹底しているという。ヨーロッパでありながらこのコロナ禍でそれに関する特別なニュースも入ってこないし、まして感染を押さえられているようだ。自由主義、民主主義国家でありながらそのシステムに少なからず関心を持っていた。

岩竹美加子:1955年東京都生まれ 早稲田大学客員准教授、ヘルシンキ大学教授を経て現在同大学非常勤教授、ペンシルベニア大学大学院民族学部博士課程修了、著書には「PTAという国家装置」、編訳書「民俗学の政治性」

*以下、一部端折りながら本文を引用

はじめに 世界一の教育はシンプルだった

フィンランドは人口約550万人、北欧の地味な小国だが、2000年以降PISA(15歳児童の学習到達度国際比較)で読解力など他分野において1位を獲得し、世界一の教育と日本でも注目されている。その良さはシンプルさで入学式や始業式、終業式、運動会等の学校行事がない。入学試験も塾も偏差値もなく、統一テストは高校卒業時だけ。服装や髪型に関する校則も制服、部活も教員の長時間労働もない。

そうしたシンプルな教育を支えるのは、徹底した教育の無償化と平等、子どもの権利とウェルビーイング、子どもたち自身の教育への参加と理念。ウェルビーイングとは福祉と訳されることが多いが、生きていく上での快適さ、満足感、充実感、安心、自信、健康等と幅広い意味を持っている。

学校がシンプルであることは、親にとってもストレスが少なく経済的、精神的に楽。小中学校では教育費は無償で、教科書やノート、教材等も無償。学級費やその他の諸費用もない。給食も保育園から高校まで無料。入学時、ランドセルや新しい服などの高価な買い物の必要もない。教科書や教材は学校に置いておくので、小さい子が毎日重いランドセルを背負い通学する必要はない。

学校と保護者間の連絡や情報交換にはメールシステムが使われ、学校からの手紙やプリント類は殆どない。教育が無償であり、国が17歳以上の人に給付型奨学金、学習ローン、家賃補助からなる学習支援を行う。返済の必要があるのは学習ローンだけで、保証人は国なので親や親族が保証人になることはない。

フィンランドでは、教育の無償と平等が強調されている。さらに、子供の様々な権利が保障されていて、それが教育の出発点。フィンランドの教育が目指すものは、子ども一人ひとりが自分を発展させ、自分らしく成長していくこと。それは、知識を習得したり、学力を高めたり、偏差値を上げることではない。

如何に学ぶかを学ぶこと、創造的、批判的思考を身につけ自分自身の考えを持つこと、アクティブで良識のある市民として成長すること。(フィンランドでは国民と言わずに市民と言っている。)そうした能力を持つと、国家や権威を批判、抵抗することもあるだろうが、様々な議論が行われることが、民主主義を持続し必要な修正を行いながら発展させていく基盤となる。

*以上、本文を引用

「はじめに」の中で、本書の内容が要約されて記され、それらが第一章~第八章により具体的に書かれている。

我が国は江戸時代には一般庶民にも寺子屋等で「読み・書き・ソロバン」をたしなむことができ、明治時代には学制がしかれ、一応世界的に見ても文字を書くことができない人は少なかったと言われている。昨今、学力低下が叫ばれるようになり、全国共通学力テストが年度当初の極めて忙しい時期に行われている。その結果としては日本全体で学力格差が如実に表れている。

最近は若干改善されてきたようだが、北海道はいつも下位にランクされている。北海道では都市と地方の差が特に著しく中々解消されていない。他府県と異なり、広域に渡っていて小規模校が多いのが現状だ。小規模校だから学力が低くなるとは言えず、私はかえって一人一人と丁寧に関われるところが好きだった。それを大規模校では味わうことはできない。現職の頃は、教師の能力に問題があるのでは?等と捉えてしまっていたが、一括りに地域差は未だ埋められていない。

本書を読み、教育には如何にシンプルさが必要かを感じてしまった。学習指導要領が改訂される度に前回の新しい試みが若干残り、更に新しいものへとどんどん加えられていく。だから必然的に、やらなければならないことが増え続け時数がいくらあっても足りないと感じていた。当たり前なのだ、器の大きさは決まっているのだから。

学者が頭を悩ませながら考え出している新しい学習指導要領に沿った教科として、小学校1・2年生の理科と社会が一本化され生活科となっている。中身的には別物的に思う。その後、4年生から6年生に総合的学習が入ってきた。当時、保護者向け所謂通知䇳の評価は記述式だった。所謂、それは手書き。現在は勿論、公文書関係も同様パソコン入力で、一見、手書きでの手間は省かれてきたとは思うが。

その後、道徳も教科となりこの評価は難しい。例えば、「いじめについてどのように考えるか」という問いがあるとしたら、本人はどうあっても理想的な答えを述べてしまうのではないのか。評価などできるものではないと、未だ思う。

「はじめに」の部分だけでこれだけの感想となってしまった。

第一章 フィンランドで親をやるのは楽だった

出産は手ぶらで病院へ。痛みを和らげる無痛分娩が普通。3~4週間の父性休暇とその後の比較的自由に調整できる勤務時間のため、子育ての分担は楽で父親が家事育児をするのは当然のこと。最近、日本でもイクメンといわれ男性の育児参加が少しずつ浸透してきたようだが、育児休暇取得率は低いのが現状だ。

公共交通機関にベビーカーを置くスペースがあり、ベビーカーを押していると運賃は無料。保育園は親が働いている、いないに関わらず生涯教育の一環と言う考え方。幼児教育は早い時期から教育の平等を準備し孤立や差別を防いでいる。生涯学習の始まりで、地方自治体による教育としての考え方。

日本は幼稚園、保育園、認定こども園は文科省か厚労省かと未だ一本化されずに複雑?現在、フィンランドの保育園は有料だが、段階的に無償化していく予定。

フィンランドは、男女平等で女性の地位が高く、働きやすい環境が整い社会進出しているというイメージがあるが、1970年代頃以降で比較的最近のこと。男女平等を掲げる北欧型福祉国家への転換が起きたのは、1980年代以降で保育園設置や男性を含む育児休暇などの社会的整備がなされた。その後、急速に社会変化が進んだというより、社会を変化させようとする努力が真剣になされた結果のこと。

フィンランドの小学校の授業時間数は日本の半分で、クラスの人数も20人に満たない。学校行事がとても少なく、学校行事の中で集団行動や連帯感、道徳を教えようとは考えない。クラブ活動はなく、趣味の活動は学校の外で行う。教科書検定制度がなく、民間の出版社が出す教科書をそのまま使われることが多い。以前は教育庁が教科書の内容をチェックしていたが、1990年代初めに廃止された。「教育計画の根拠」に準拠することは求められている。

第二章 フィンランド式「人生観」の授業と道徳

日本の道徳は徳目が羅列されているが、道徳というのは倫理や哲学、政治にもつながる事柄であり、本当はもっと志の高いものではないか。「義務を果たす」はあるが、権利に関するものはない。成るほど、日本的に「させてあげる」等、上から目線の捉え方なのだ。

フィンランドの小中学校と高校で、道徳に関わることを学ぶ教科は「人生観の知識」。道徳は善と悪、正しいことと間違っているいることを区別する人間の能力のことである。倫理は、道徳的な問題を考察することだが、人の行動に干渉したり、こうすべきだと行動に関する指示をしたりしない。道徳は善と悪、正と不正を分け、具体的に人はどう行動すべきかに干渉する。倫理は、行動についての規範でなく、道徳をより哲学的に考える分野。

子どもには様々な権利がある。「子どもの権利は大人の義務」で「子どもの権利は国連で合意された。それは、18歳以下のすべての子どもの人権条約である。そこには、子どもの権利が列記され、国家がそれを実現していくことが合意されている。フィンランドで発効したのは1991年」

民主主義国家の教育と全体主義国家の教育の違いを以下のように説明している。「市民に知識を得る能力や動機、可能性がない場合、民主主義は単なる選挙権の行使に終わってしまう。養育と教育が、批判的に考える市民を育てることを可能にする。それは民主主義を進める基本である。

日本では選挙権が18歳に引き下げられたが、その選挙権の行使すら低い現状ではないか。国政選挙の度に投票率が低下している。現状維持で良いからなのか、関心がないのか。意思表示として認められているデモや署名すら荒唐無稽?で、香港の若者たちに対しても対岸の火事?

全体主義的な国では、国民は国家のイデオロギーに従順であるように育てられる。そうした国では、批判的な国民は社会的危険、国家制度を揺るがす存在と見なされるので、自分で考える能力を発達させる価値は認められい。」日本の高校生が教科書からこうした知識を得ることはあるのだろうか。

第三章 フィンランドはいじめの予防を目指す

フィンランドでいじめは、法的な問題で法に基づく処罰もあり得ると認識されている。法が規定する犯罪の特徴や様相を満たす場合犯罪となる。例えば、中傷、脅迫、軽度の虐待などに関する法規定は、いじめに適用される。日本で学校のいじめは、道徳教育強化が必要という方向に持って行かれやすい。道徳の教科化の理由になった。フィンランドでは子どもの権利を出発点にして、いじめ防止を図るのとは異なる。

第四章 フィンランドの性教育

フィンランドの性教育が含むものは非常に幅広く、起点になるのは自分の心身と向き合うこと。幼児期から絵本などを使って緩やかに始まる。幅広い課題を高校まで学んでいく。子どもの権利を出発点とするフィンランドの学校教育の一環としての性教育のあり方を示している。

2009年、ユネスコは性教育の指針として『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』を発表したが、日本の性教育はこうした国際的な方向性とも全く乖離している。性について教えられていない一方で、日本では痴漢やセクハラが蔓延していて、性犯罪にあった場合の対処も教えられていない。被害に遭った女性は声をあげにくく黙らせようとする雰囲気がある。

第五章 フィンランドはこうして「考える力」を育てている

フィンランドには学習義務はあるが、学校に行く義務はない。ホームスクールという選択があり、全国的には、約300人がホームスクールやネットで学んでいて。それほど多くはないと言える。日本は学校に行く義務がある。不登校は、登校という規範から外れる「不」登校というネガティブな位置づけである。

登校は学校を上位に、家を下位に置く言葉で、不登校にはお上に逆らうニュアンスがある。現在、日本に約14万人の不登校児童がいるといわれ、NPOなどによる活動が行われている。

フィンランドには学校を強制していない。学習義務は、学習量に相当する知識とスキルを得ること、学校に行く以外の方法で満たすことができる。学校に行かないことに関して行政からの許可は不要で、保護者が決定し学習義務について責任を持つ。その場合、居住する地方自治体が学習の状況を監督する。

第六章 フィンランドの「愛国」と兵役

フィンランドでは高校卒業後すぐ大学進学、大学卒業後すぐ就職というシステムはない。学生と社会人という明確な線引きもなく、いつ兵役に行くかはについては柔軟性があるが、最近は高校卒業後すぐが望ましいとされ29歳までに行くことが奨励されている。フィンランドの憲法では兵役義務がある。

兵役について、戦後生まれの私にとっては現日本国憲法のもとでの日本人であり、何も申し上げることはできません。身近な親族が兵役に就く、そのこと事態考えられないのです。

第七章 フィンランドの親は学校とどう関わるのか

日本のPTAは非加入を許されず、半ば強制加入で退会は認められない。フィンランドの保護者組織は「親達の組織」。学校とは別の任意の市民団体で、ない学校も多い。上部組織として「親達の同盟」という組織があって、相談したり、助言、提言したりする。

必要があれば作る任意組織なので、作っていないところも多い。勧誘はなく強制されることはない。保護者組織は、関心のある親が任意で子供のための活動を行うので、親も子も全員歓迎である。親が会員かどうかで子供を差別したり、子供への対応に影響しない。フィンランドでは、いかなる理由があっても法律で差別は禁じられている。

第八章 フィンランドの母はなぜ叙勲されるのか

国の独立は、戦争と犠牲によって得られること、国防を担う息子と娘を育てた母は感謝と敬意を受けることが述べられ、「自由の十字勲章」は四位のものである。フィンランドの母の日は、正式な祝日で国旗が掲揚される旗日。現在は一位の勲章で、従来は子沢山に与えられていたが、90年代から対象をを広げた。

恵まれない子供を養子にして育てた母、外国出身の母、少数民族の母、模範的な養育者、ケアの分野で功績のあった女性など、全国の地方自治体から推薦、選出された女性達である。フィンランドの社会的母性の考えで、母は必ずしも産む母である必要はなく、母のような心を持って社会に貢献することが大事。母の日の叙勲はメディアで報道される。

*以下、一部端折りながら本文を引用

おわりに

学ぶことは知的で楽しいことなのに、画一的権威主義的に行われるのは残念なことだ。フィンランドの教育がシンプルで効率的なのは、合理主義やプロテスタンティズムの影響。平等を強調するのは、社会民主主義やユダヤ・キリスト教の平等思想の影響があり、教育の考え方は啓蒙主義。それらを経て90年代からは子どもの権利を尊重する国連子ども権利条約影響で、現在のような形になったと考えられる。

その国の教育のあり方は、全体の仕組みの中にある。フィンランドは政治的腐敗が少なく透明度が高い。大統領の権限をできるだけ縮小し、権力の集中を防いでいる。立憲主義、三権分立、開示の原則、市民権、人権などは国家の重要事項である。人と国家は並んでいて共に権利と義務を持つ。市民イニシアチブや異議申し立ての制度が保障され、行政へ参加し影響を及ぼすことが奨励されている。デモやストライキは普通。

北欧は税金が高いと言われているが、不正使用や不透明な流用が少ない。払った税金は様々な社会的サービスに還元されている。フィンランドは、法律が浸透しているが中央集権ではない。日本は法律は浸透していないが、中央集権で全体主義的。そして、国家は人と並んで共にあるのではなく、人の上にある。相互の利害関係の中で、自分の利益を最大にしようとしている。

*以上、本文を引用

フィンランドは一時で福祉国家、教育が行き届いた国家になったわけではなく、これまで国内での内乱の歴史、宗教的な考え方、程よい人口規模等を経て現在がある。根底にあるのは「男女平等」と憲法で定められている「差別の禁止」。これらの基本的精神が福祉や教育に生かされている。

全てにおいて、シンプルさが根底にあるフィンランドの教育。この考え方が現在に至るようになるまでは、長い歴史の中で育まれてきた。携わってきた者として教育のみに目を向けてみると、内側からのみの改革ではなく他国から学び取り入れていく余力が必要ではないかと思う。過去の栄光を背負ったまま世界の変化について行かなければ、取り残される。

コロナ禍で緊急事態宣言の後、学校が一斉休校となりオンラインで進められたところもあった。未だ全くの紙物主体で右往左往していた公立学校。IT化の遅れが如実に現れていたがそれだけが問題ではなかったように思う。戦後75年を経て内からの若干の変革は見られたものの同じシスケムの教育界?教育行政?外から学んで抜本的改革を図っていかないと更に疲れ果てていくのは子供達と教師。

その子供達が将来を担っていく大人へと育っていくのだが、希望が持てる我が国、日本であってほしい。このコロナ禍で見えてきた様々な分野の中で、先ず未来を担っていく子供達のための教育から取り組んでほしい。その、「人を育てる」という教育の基本に立ち戻って。

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