日記

「日本の品種はすごい うまい植物をめぐる物語」竹下大学著を読んで

投稿日:2020年6月17日 更新日:

公立図書館がやっと開館になったが、インターネット上で申し込んだ後の貸し出しと返却のみらしい。申し込んでも1週間以上待たなければならないことが多い。そんな訳で、丁度、札幌駅の近くまで出かけその足で書店に寄ってみた。午前10時には開店しているはずだが、午前10時50分頃の玄関前にいる大勢の人に何故という気持ちになった。どうやら暫くの間、開店は午前11時なのだ。

さあ、開店した。いそいそとご希望のコーナーへ急ぐ人達。今売れている図書は、ペスト、パンデミック、野村監督さんのもの、コロナ系、料理本とこのご時世を反映している。あれこれとお気に入りの一冊を探すこの瞬間が好きだ。どれにしようか迷っていると、暗い日本、変わった国というイメージのある現状を元気づけてくれるような「日本の品種はすごい」竹下大学著を選んでみた。

【ジャガイモ】

最初、ジャガイモは「オランダいも」といわれ、江戸時代にオランダ船によって長崎の平戸に入った可能性が高いそうだ。インドネシアの首都ジャカルタから入ってきたイモ、ジャガタライモという語源が変化してジャガイモになったことはよく聞く。

日本のルーツをたどると長崎

長崎のジャガイモ生産量は明治時代まで全国一を誇っていて重要な輸出農産物の一つだった。長崎では二期作が可能で、春と秋に収穫できる。ジャガイモは元々冷涼な気候を好む作物だがそれを品種改良で克服し現在でも北海道に次ぐ日本第二位の生産県である。その収穫量は4.1%で北海道の20分の1。

初夏に新じゃがとして店頭に並んでいるのは「ニシユタカ」という品種で長崎県総合農林センターで育成された。北海道産のジャガイモがまだ店頭にない春先、長崎産のジャガイモがいち早くお目見えしている。何故、長崎産なのか?ずっと疑問に思っていたがこれで解決できた。心の中では北海道産の方が美味しいのにと思いつつ、ルーツをたどることで納得した。

ジャガイモといえば北海道

イモの代表といえばジャガイモに票が集まる。2018年度(平成30年度)の国内収穫量は、ジャガイモ225万9000トンに対してサツマイモ79万6500トン、サトイモ14万4800トンで大きく差をつけられている。実にジャガイモは、サツマイモの2.8倍、サトイモの15.6倍も生産されている。

中でも「男爵薯」は、1906年(明治39年)川田男爵が北海道函館近郊七飯町に農地を購入し西洋野菜を試作したことに始まる。「男爵薯」として普及するまで紆余曲折を経て、1928年(昭和3年)北海道が定める優良品種に選ばれ道内での生産がいっそう盛んになった。

「メークイン」が北海道における優良品種に決まったのは1928年(昭和3年)で「男爵薯」と同時であった。病気に弱かったため、戦前はあまり注目されなかった。「男爵薯」と比較し煮崩れが少なく、芽が浅いため煮姿もきれいで滑らかな舌触りが関西の食文化に合い脚光を浴びたのは1955年(昭和30年)頃からである。ただしえぐみが強い点は欠点として上げられている。

近年、日本で育種された「コナフキ」、「男爵薯」、「メークイン」、「ニシユタカ」、「キタアカリ」、「ホッカイコガネ」は、2014年(平成26年)品種別生産量で並ぶ。

寒すぎる環境のせいでイネが栽培できなかった北海道を中心に、ジャガイモ生産は国内食料増産に大きく貢献してきた。1965年(昭和40年)から1987年(昭和62年)をピークに国内生産量は減少に転じ、逆に海外からの加工用原料輸入は増加の一途をたどっている。

ポテトチップスの戦い

生イモの輸入は植物防疫法により原則禁じられているが、冷凍や乾燥して入る加工用は別である。そこで登場したのが「トヨシロ」である。他にもポテトチップス用の品種として「ワセシロ」も新ジャガポテトチップスの原料として今でも一定の需要を保ている。

カルビーの総売上は、約5割がポテトチップスで占められている。独自に海外から、日本での生産量に向く新品種を導入した。アメリカからの「スノーデン」は北海道が定める優良品種になった。さらに、カルビーポテトは自社育成も行っており「ぽろしり」である。「トヨシロ」、「スノーデン」、「きたひめ」の三品種で9割がまかなわれてきた。

フライドポテトの戦い

ポテトチップスの後はフライドポテトの戦いである。マクドナルド一社だけでも、1980年には約200だった店舗数が、2000年には4000店近くまで増えた。アメリカで冷凍フレンチフライに加工された後に輸入される「ラセットバーバンク」に価格と供給量で太刀打ちできるわけもなかった。

カラフルポテトの登場

欧米ではジャガイモはすぐ調理できるように洗浄されて店頭に並ぶが、日本では泥付きのままだ。ジャガイモ生産業界がコスト高を嫌っているためなのか、消費者が泥付きの方が品質が良いように感じるからか。にも拘わらず、果肉がカラフルなジャガイモの育成で日本は世界をリードしている。

2002年(平成14年)、日本初の紫肉品種と赤肉品種はそれぞれ「インカパープル」、「インカレッド」と命名され、品種改良されのは「キタムラサキ」、「シャドークイーン」、「ノーザンルビー」の三種類である。赤や紫色の色素はアントシアニンである。

「インカのめざめ」は黄色い果肉でカロテノイド系色素が含まれている。「インカのめざめ」は北海道農業試験場で育成された。長崎県雲仙市の俵農場では自然突然変異によるジャガイモの品種改良で「デストロイヤー」を育成した。「インカのめざめ」はとにかく美味しい。一口食べてみると、これジャガイモかと疑ってしまう程の衝撃があった。甘さがありほくほくしていて。

【ナシ 日本発祥の珍しき果樹】

日本オリジナルで独自に唯一種のレベルで進化を遂げた果樹。日本のナシは栽培種の起源である野生種ニホンヤマナシが自生していたことに始まる。柿は中国から伝わった果樹でこちらの方が日本発祥果樹と思いがちだ。「日本書紀」によると持統天皇が五穀の補助作物として植えるようにとの詔を出したと記されている。

「長十郎」は最近こそ見かけられなくなったが、大正時代には全国生産量の六割をしめていて昭和50年代まで大ヒット品種として長く親しまれていた。1889年(明治22年)タネから育て実をならせた苗木中に、変わった個体を見つけたことに始まる。

発売当初は評判にならなかったが、四年後に黒斑病が大流行し全国のナシ産地に壊滅的なダメージを与えた。ところが「長十郎」だけがあまり被害を受けず収量を維持できた。その事で期待の新品種として接ぎ木と高接更新という技術の進歩で広がっていった。

ところが、大きな欠点として日持ちの悪さが上げられる。収穫して五日も経たず果肉が柔らかくなり鮮度と甘味を失ってしまう。いわゆる「ボケる」という症状である。この流通泣かせな「長十郎」は「二十世紀」に取って代わられる。

「二十世紀」のうまさが注目されるようになったのは、「長十郎」に遅れること僅か8年であったが、生産量でライバルと認められるまでには40年を要した。終戦から昭和50年頃まで、東の赤ナシ「長十郎」と西の青ナシ「二十世紀」の両雄の時期であった。

病気に弱かった「二十世紀」が黒斑病の防除方法確立を契機に、ついにナンバーワンの座を奪い取った。「二十世紀」は神奈川県川崎市の少年が偶然落ち葉や野菜くずのゴミだめで、生え育った幼木を見つけたことに始まる。丁度少年の両親がナシ生産を始めた頃で、少年もナシに対して強い興味と漠然とした使命感を持っていた。

待望の果実を実らせるまで10年もかかったが、ナシ特有のざらざら感が少なく口当たりの良さに従来のナシのイメージを一新させた。「長十郎」と同様に意図的に交配して作り出した品種ではなく偶然発見された個体だった。「二十世紀」は鳥取県の県花である。

鳥取県は47都道府県中人口は最下位であるにもかかわらず、ナシ生産量は千葉県、茨城県、栃木県、福島県に次ぐ第五位である。現在の生産量シュアは約8%にとどまるものの、2001年(平成13年)まで長くトップの座に君臨していた。他の品種より土壌の乾燥に強かったことも影響した。より甘い「幸水」の登場で消費者が「二十世紀」の味を物足りないと感じ始めてしまった。しかし、鳥取県ではいまだに「二十世紀」を生産続けている。

「幸水」は真夏に収穫期を迎える。埼玉県が主要産地の「幸水」は滴り落ちる果汁、切れの良い甘さ、シャリシャリ感で「二十世紀」の次に生産量一位に上り詰めた。1989年(平成元年)からすでに30年が過ぎている。

【リンゴ サムライの誇りで結実した外来植物】

リンゴはバラ科リンゴ属のいくつかの種が自然に交雑した雑種である。祖先種は中央アジア山岳地帯の冷涼な地域であり、日本では青森県や長野県が主な産地である。世界最大生産地はダントツで中国、二位アメリカ、日本は10番台後半である。

生産を目的とする栽培は、1869年(明治2年)北海道現七飯町で始まった。後に、「男爵薯」が最初に植えられた土地柄でもある。この計画はプロイセン人のガルトネルによって進められ、アメリカ人のケプロンに受け継がれた。北海道開拓を目的とした事業の中で行われ、日本で初期栽培が広まった西洋リンゴはすべてアメリカで育種された品種だ。

日本における西洋リンゴの交雑育種は青森県で始められた。リンゴワタムシとの戦いの末、殺虫剤を散布せずに選抜する方法をとる。天敵となる外来生物の導入による害虫防除が永続的に成功した。「国光」と「紅玉」(アメリカではジョナサン)は日本の二大スター品種になっていく。

「デリシャス」はリンゴの二大重要病害であるカビによる黒星病と細菌による火傷病のどちらに対しても抵抗性を持っていたばかりではなく、栽培性において欠点がなかった。1895年にアメリカのスターク社から苗木が発売されて以降、爆発的な人気を呼んだ。日本への導入は1911年(明治44年)、札幌農学校から改称した現北海道大学によってである。

「スターキング」は「デリシャス」が赤く着色するようになった枝変わりの品種である。日本では「スターキング」を含め「デリシャス系」とひとくくりにされることが多い。1974年(昭和49年)には「国光」を抜いて生産量一位となったが、日持ちが悪くボケやすい性質が嫌われ1982年(昭和57年)に「ふじ」に抜かれ、急激に生産量を減らしていった。

「ふじ」は日本のリンゴ産業を救ったスーパーヒーローであり、世界一の生産量を誇るスーパースターである。しかし、交配から登録まで23年もの年月を要した。1941年(昭和16年)の開戦に続き1943年(昭和18年)のリンゴ園耕作転換令である。

戦後、高度成長期を迎えながら最初の敵は海外~やって来た。バナナである。暫く「国光」はもちこたえたが、価格が大暴落してしまう。次の敵は国内の暖地からやって来た温州ミカンだった。「ふじ」は大きな欠点を三つ抱えていた。着色の悪さ、形のいびつさ、果実の割れやすさである。

更なる欠点は高接ぎがうまくいかずウイルス病を発病してしまう。失敗を繰り返したあげく、それを寄せ木で乗り越え1966年(昭和41年)には僅か1%にすぎなかった「ふじ」の生産割合は1975年(昭和50年)一気に17%にまで増える。この勢いは1985年(昭和60年)49%、1995年(平成7年)49%にまで達する。

国内では1962年(昭和37年)に品種登録されたが、海外では何の知的財産権も主張できないまま、日本に何がしらの利益をもたらす仕組みを作られずに無制限に増やされてきた。ひとたび輸入が自由化されてしまえば海外産生産物の輸入を一切制限できなくすることになる。

中国は世界最大のリンゴ生産国である。半数以上が「ふじ」で占められ国内生産量の35倍以上にもなる。現在では、国の育成品種は海外に出さない。しかし、欧米先進国と比較すると日本の対応は遅れている。農林水産省がサポートをし始め、ついには新品種の海外持ち出しを規制し刑事罰を科す種苗法の改正案をまとめた。

「つがる」は「ふじ」に次ぐ第二位の品種である、交配は「ふじ」より早い。当初、育成地である青森県で高い評価が得られず放置されていた。可能性を最初に見いだしたのが長野県である。「つがる」は皮肉なことに青森県のライバル産地である長野県の戦略商品となっている。

【ダイズ 縄文から日本の食文化を育んできた豆】

2010年頃までの定説では、ダイズはイネ同時期、弥生時代に中国大陸から日本にもたらされたとされてきた。今では遺跡の出土品によって約5000年前の縄文中期に遡り、独自に野生種から栽培されたと考えられるようになった。全国各地で様々な特徴を持つ在来種が育まれてきた。ダイズの品種は環境に縛られる。言い方を変えると土地を選ぶ。

ダイズは農産物規格規定によって、種子である大豆の大きさが4段階に分類される。四種類のふるいを用いて、極小粒、小粒、中粒、大粒(寸法値については省略)。納豆業界も基本的にこれに準じて商品に表示している。極小粒は大豆なのに小豆より小さい?そもそも大豆は大きな豆ではなく、大いなる豆なのだそうだ。

日本の食文化も日本人の健康長寿も、大豆加工食品抜きには語れない。国産大豆の用途は、豆腐53%、納豆16%、煮豆惣菜10%、味噌・醤油10%で、近年は豆乳の伸びが目立ち、20年間で約10倍に拡大している。豆乳は例外として国内で使われる大豆はアメリカからの輸入が約7割を占めている。大豆の自給率は回復してきたとはいえ、まだ7%に過ぎない。

「豆腐」の製造量が頭抜けて多い。都道府県庁所在地と政令指定都市を合わせた52都市における二人以上世帯あたり豆腐消費量は、静岡県浜松市は年間99丁で平均値は81丁、最下位北海道札幌市58丁から判断しても、全国で食されていることがわかる。書物に残っている限り、庶民が豆腐を口にできるようになったのは江戸時代初期から。

「納豆」はこの50年間で右肩上がりで4倍以上に増加している。「関西人は納豆嫌い」は語れなくなってきた。納豆生産量一位は水戸納豆の茨城県で、「おかめ納豆」の一社抜きん出たタカノフーズは茨城県が創業の地だ。庶民が食べるようになったのは江戸時代中期、醤油が安く手に入るようになったためと言われている。

戦後の消費拡大には、1956年(昭和31年)のポリ容器と昭和40年後半から昭和50年代前半にかけてのタレ付き納豆である。さらに、1977年(昭和52年)に一人分の個別包装が登場するに至って納豆は国民食となった。

「味噌」の用途といえば味噌汁で、日本人の誰もが味噌汁を飲むようになったのは江戸時代からである。すり鉢が普及し誰もが簡単に大豆をすりつぶせるようになり、自家製味噌づくりが盛んになったこと。所謂「手前味噌」である。その後の大都市の味噌屋の創業ラッシュで、買う物というライフスタイルへ変化した。

味噌は大きく米味噌、麦味噌、豆味噌の三種類に分類される。主原料の大豆に加える麹のもとになる麹菌が何で繁殖されたかで決まる。赤味噌は蒸した大豆を用い、白味噌は煮た大豆を用いる。

「醤油」の最初の一滴は和歌山県有田郡湯浅町で生まれた。生業としての醤油製造は室町時代末期の1530年代に始まった。現在、最も多く生産されているのは千葉県で全国の四割を占めている。一位のキッコーマン、二位のヤマサ醤油、四位のヒゲタ醤油の創業地が千葉県である。三位は群馬県の正田醤油。

用途別に求められる大豆の品種特性を記す。豆腐用には高タンパクで粒が大きい品種、納豆には小粒の品種、煮豆用は粒が大きく皮が裂けにくく煮崩れしにくい品種。味噌用は加熱したときの色合いが明るい品種となる。醤油も同様であるが、脂質が少ないという条件が加わる。豆乳には糖分含有量が多く青臭さの原因物質が少ないという条件が加わる。

長年に渡り上記の特性に合った品質改良が行われてきた。日本一の産地は北海道である。品種改良は、1926年(大正15年)に十勝農事試験場で始まった。味噌・醤油造りに向く「キタムスメ」(1968年)、耐病性に優れた「トヨムスメ」(1986年)、2001年(平成13年)育成の「ユキホマレ」となって現在に至る。

新千歳空港から北に30キロメートルのところに大豆日本一を誇る夕張郡長沼町がある。主力品種は「トヨムスメ」と「ユキホマレ」で、両者とも甘味が強く煮豆向きの特性を持っている。道内第二位は十勝地方の河東郡音更町である。

「枝豆」は豆に分類されず、穀類の大豆とは切り離されて野菜に分類されている。栽培面積で比べると枝豆が大豆の十二分の一である。山形県「だだちゃ豆」、新潟県「くろさき茶豆」に代表される。「丹波黒大豆」は莢の大きさ、莢から飛び出てきた豆の大きさと色、味の深み。大豆の中で世界一を誇る品種ならではの食べ応え、独特のもっちり感、濃いうま味。麦芽糖が他の品種より多く甘みの質がより良く、日本で独自に進化した品種であることがわかっている。

「大豆もやし」は、「毛也之」と記されたもやしが初めて登場する書物は、平安時代の「本草和名」である。現存する最古の薬物事典である。もやしの生産量は1970年(昭和45年)年以降、繰り返しやって来るラーメンブームにより増え続けている。都道府県のうち最も多く生産しているのは栃木県である。当県は東日本各県へのアクセスと水道水より安価で豊富な地下水に恵まれている。

青森県「大鰐温泉もやし」は水耕栽培ではなく、室内の地面に穴を掘り藁とむしろで蓋をして作られている。「小八豆」と呼ばれる在来種の小粒の大豆が用いられ、栽培は江戸時代初期から受け継がれている。

ブラジルは大豆輸出量世界一である。それを推し進めたのは日本が田中角栄政権下で輸入先の多角化に動いたからである。現在、国内で使われる大豆はアメリカからの輸入が約7割を占めている。1994年(平成6年)には2%と、最低を記録した大豆の自給率は回復傾向にあるとはいえ、まだ7%に過ぎない。

この書物を通して

現在、日本の食料自給率は40%を切り、諸外国からの輸入に頼っている。「新コロナウィルス感染症」対策を通してマスクや防護服に至るまで、如何に輸入に依存しているかがわかった。いざという時の国難を考え、食料品をはじめとして生活必需品等の国内受給に努めておく必要がある。

先人たちが積み上げてきた努力と研究の成果や権利を、気が付いてみたら易々と外国に持って行かれている、それだけは阻止していかなければならない。南北に細長い日本列島、その独特な地域の気候風土にあった農作物をつくり上げてきた先人たち。

安ければ口当たりが良ければだけではなく、食の安全性に拘り価値を認めていかなければならない。農薬の恐ろしさに対する関心を持つべきで、微量な化学物質の長きに渡る人体への蓄積が恐ろしい。ある書物によるとそれが最近話題となっている事柄に繋がるらしい。

安さばかりに目を奪われず、少しぐらい価格が上がるとはいえ安心安全な国産品の需要が増えることで自給率を上げることに繋がっていく。

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